「言ったでしょう? 皇一族が動き出してるって」
それはつまり、伊妻の残党がいるということ。
そして、よりによって神皇帝を否定した伊妻の残党に皇一族と契約を交わした始祖神よりも高位の天神の娘、桜桃の存在を知られてしまったということだ。古都律華の連中は桜桃を殺そうとしているが、天女伝説を信仰している伊妻の一族は彼女を手に入れようとするに違いない。天神の娘を孕ませた者が次の栄華を手に入れる――真実か虚偽か定かではない、それでいて生々しい伝説のために桜桃が狙われる……
突きつけられた現実に柚葉は黙り込む。「そのため皇一族内でも意見が分裂しているわ。帝の前妻、蛍子(ほたるこ)さまの息子である第一皇子は天神の娘の栄華を利用しようと画策しているし後妻の冴利さまは天神の娘など不要だと古都律華を擁しているなんてはなしだし……」
「どこからそのような情報を?」 「現黒多子爵から。彼の奥様の滝子さまが帝の異母妹だって知ってるでしょう? 皇一族のスキャンダルを調べるならお喋りな彼女から聞くのが一番よ」ときどき早とちりして誤った情報も届くけど、とほくそ笑んで、梅子はつづける。
「皇一族は湾さんの行方も知ってらっしゃるみたい。苔桃には信頼のできる人間を傍に置くって滝子さまもおっしゃっていたから、しばらくは平気だと思うけど、予断を許さない事態に変わりはないわね」
このままでは桜桃は狙われつづけ、最悪皇一族の後継者争いにまで巻き込まれてしまう。柚葉は深い溜め息をついて、梅子に向き直る。
「それでも、俺は彼女を取り戻します」
「その選択ははじめから誤っているけど、止めはしないわ。ただ」呆れたように梅子が声をあげる。涙声だ。
「お母さまがなぜ死ななければ……ううん、殺されなければならなかったのか、梅子は知りたい」
きっと梅子と柚葉の母である実子もどこかで選択を誤ったのだろう。暗殺者を雇った時か、それとも愛妾の存在を知った時か……その結果が、この悲劇だと梅子は柚葉に告げ、声を震わせる。
「姉上……」
「だから柚葉、まずは空我家次期当主と小環からの文を読んだ湾は思わず芝桜の咲き誇る庭を臨める窓の向こうへ投げ捨てたくなる衝動にかられた。だが、そのまま投げ捨てるわけにもいかず、渋々細かく破り捨てて準備しておいた特殊な水に溶かしこむ。 その様子を見ていた柚葉は彼の態度を一瞥して、つまらなそうに呟く。「黒多子爵令嬢が撃たれたそうですね」 「……知ってたのか」 「姉上への手紙にそう書かれていました」 柚葉は懐に入れておいた黒椿の印が押された撫子色の封筒をこれ見よがしに差し出す。奪い取り、便箋に記された文字を辿った湾は黙って千切り、水の中へ散らしていく。 黒多桂也乃と柚葉の姉、梅子は桜桃が北海大陸へ渡る以前から文通をしていたらしい。桂也乃は梅子を姉のように慕い、梅子もまた神皇の異母妹の娘である素直で朗らかな桂也乃を認めていたという。愛妾の娘である異母妹の桜桃よりもずっと姉妹のように見えたことを思い出し、柚葉は苦笑する。「どういうめぐりあわせか、因縁深い相手ばかりがゆすらの周りにいるようです」 柚葉は梅子と湾からそれぞれ情報を受け取っている。梅子は桂也乃からの手紙をそのまま柚葉に渡すが、湾は皇一族の機密に関わるからと口頭で伝えてくる。まるで渡すべき情報を選んでいるかのようで気に食わないが、現時点で柚葉は皇一族を敵に回そうとは考えていないため、渋々、桂也乃の手紙と照らし合わせながら湾の言葉を確認していく。「犯人はすでに捕まっている」 「ええ。『雪』の部族だとは思いもしませんでしたが」 桂也乃の手紙にも、小環からのそっけない文書にも、寒河江雁という見知らぬ少女の名が記されていた。彼女が桜桃を狙って猟銃を発砲したという。だが、なぜ彼女が桜桃を狙ったのかは捕まってからも黙秘しているようで、真意はわからないままだ。 桜桃を庇って肩を撃たれた桂也乃は、一時的に意識を失ったもののすぐに回復し、救護室から筆を走らせその日の郵便船で間に合うように手紙を書き上げたのだ。五日に一度の海軍定期船とは異なり、民間の郵便船は三日に一度の頻度で運航されているので急ぎの場合は便利である。とはいえ天候に左右されやすい郵便船は
少女が顔を向けた先には、同じようにびしょ濡れになって突っ立っているボレロ姿の少女がいる。少女の瞳は、澄み切った灰色。「……」 その腕には、少女が持つにはおおきすぎる無骨な猟銃を抱きかかえている。発砲したことで生じた焦げくさい臭いは、この雨で消されてしまったようだ。 ふたりの少女は降りしきる雨の中、睨みあうように対峙する。「天神の娘を殺せと言ってるわけじゃなかったのに。ただ、ここにいたら困るから、別の舞台に移ってもらいたかっただけ……まさか帝都清華の令嬢が庇うなんて」 「何を言っているの?」 疑わしそうな少女を見て、暗示が解けてきたのを悟り、ふたたび少女は名で縛る。 すると、怪訝そうな顔をしていた少女の瞳の色が薄くなり、蝋人形のように、表情を失った。 暗示を施した少女は満足そうに少女の耳元へ囁く。「この地に春を呼ぶために、必要なのは天女であって、ちからを持たない天神の娘ではない」 少女はそう口にして、付け加える。「でも、ようやく網にかかった天神の娘をそのまま殺したら、古都律華の頭の固い奴らと一緒。神々を統べる至高神と契りを結んだカシケキクの末裔である天神の娘ですもの、利用しなくては」 天神の娘が泣いたからか、ひどい雨だ。 自分たちを糾弾するような氷雨を浴びながら、少女はそれでも宣言する。「失われた伊妻の栄光をこの手に取り戻すため、皇一族を奈落の底へ突き落すため、天神の娘には傀儡になっていただくわ。ほんと便利よね、カイムの民って。ひとつの名前にふたつの意味を持たせるふたつ名があるんですもの。天神の娘も、目の前にいる貴女のように、ふたつ名で縛ってあげるの。素敵でしょう?」 くすくす笑いながら少女は名を呼ぶ。「ずぶ濡れになっちゃったわね。浴場に行ってから、戻った方がいいのではないかしら? その手にある大事なものも忘れないようにしなさいね。きっと、みんなに驚かれちゃうわ、狩(カリ)さん」 狩と名を呼ばれた少女、寒河江雁は、言われたとおりだと素直に頷き、猟銃を手にしたまま、ふらりと建物の中へ入って
* * * 桂也乃。仲良くなったばかりの女学校の友達。なんで、彼女が撃たれなくちゃいけないの? あたしを庇ったから? 桜桃の悲鳴に呼応するかのように、息を切って走って来た小環が、隣に滑り込む。 ――ここは安全な鳥籠じゃない。 そう言っていた小環の言葉が、いまになって身に沁みる。「小環……」 「撃たれたのは肩か。弾は貫通している。痛みで意識を失っているだけだ。命にかかわることはない」 手早く桂也乃の状態を診て、小環は桜桃に告げる。 誰かが呼んだのか、校医が担架を運んできた。遅れてやってきた四季が何も言わずに校医とともに桂也乃を乗せた担架を持ち、桜桃たちを置いて救護室へ慌ただしく姿を消す。 残雪に残る真紅が、桜桃の瞼の裏で燃え上がる。空我別邸で使用人たちが惨殺されたときと同じだ。 「……あたしのせいよ」 自分が天神の娘で狙われた存在である自覚が足りていなかったから、こんなことが起きたのだと桜桃は弱々しく呟く。 「そうだな、お前のせいだ」 当然のように小環は応え、泣くのを堪えている桜桃を抱きしめる。柚葉だったら、絶対こんな反応はしない。そんなことないよって真っ先に否定してくれるはずだ。 でも、ここには護ってくれた柚葉はいない。いるのは意地悪な小環だけだ。けれど。「……黒多はお前を護れて喜んでいると思う」 ぶっきらぼうに、付け加える。「そう、かな」 泣くまいと思っても、桜桃の応えに頷いた小環に抱きしめられて気が抜けたからか、涙があふれ出してしまった。 しがみついて、いまは泣く。 上空もいまにも泣きそうな色をしている。 小環は泣きだした桜桃を抱きしめ、背中をやさしくさすりながら、空を見つめる。 雨が降りだした。 凍てつく土を頑なにしてしまう、冷たい雨が。 残雪を溶かし春の芽吹きを呼ぶやさしい雨ではなくて。雷を伴った氷雨が。
「!」 猟銃の発砲音に、小環が無言で四季の部屋から飛び出していく。四季もまた、ちからの奔流を感じて立ち上がる。 ――天神の娘が嘆いている。 負のちからが潤蕊に雨雲を寄せ付ける。 このままちからが暴走したら、雪よりも冷たい、天が流す涙のような氷雨が降りだすだろう。「……ミカミ・サクラ」 偽名とはいえよく考えたものだ、と四季は嗤う。 神と同等の存在として崇められ、恐れられた生粋のカシケキクはもはやいない。『天』の血を継ぐ人間はこの大陸中に溢れ、それぞれが三上や見上、御神などという姓を名乗ってはいるが、神と等しいちからを持つ者は残っていないとされていた。土地に縛られる形で神職を務める逆さ斎の一族をのぞいて。 だが、帝都からやって来た男に恋してこの地を棄てた巫女姫、セツは、身に神を宿せる生粋の『天』だった。 小環の傍にいた少女は、その巫女姫の娘。なんのちからも持たない小娘が、純血の天神の娘の娘だからという理由で追い詰められ、その結果、母の故郷である北の大地に足を踏み入れることになるとは、なんたる皮肉。環境の変化に翻弄されながらもようやく彼女はここでの生活に慣れてきたように見えたというのに、さきほどの銃声で、呆気なく壊されてしまった。「ちからを持たぬ天神の娘など、我らカシケキクの傍流と同じ。お前たちも放っておけばよいものを!」 四季は毒づきながら、粟立つ肌を両腕でかき抱く。 四季の周りにいる神々はざわめいている。天神の娘の嘆きを聞き入れるように雨雲が集ってくる。稲妻を彷彿させる騒がしい耳鳴りが四季を苛む。雷雨になるだろう。けれど、常人にはわかりようのない変化だ。ただ、天気が崩れた。それだけのこと。 もはや神々と共存する時代は終わったのか? だからこの大陸に春はやって来ないのか?「くだらない」 天女を信じて神の血縁である神皇に嘆願した『雪』も、天女を見限って神嫁にすがる『雨』も、神に媚び諂っているだけだ。 四季の祖先は『天』に繋がりを持ちながらも土地神のいない椎斎にいた。その後、神
* * * 蝶子を乗せた黒い幌馬車はゆっくりと校門前から去っていく。「行ってしまいましたわ……」 すこしだけ淋しそうな桂也乃を見て、桜桃も頷く。周囲には桂也乃たちのように蝶子を見送り名残惜しそうに走り去っていく馬車を見つめている生徒たちの姿がみえる。小環の姿はない。たぶん、呆れて先に部屋に戻ったのだろう。「……桂也乃さん、いつもこのようなことが起こるのですか」 桜桃はおそるおそる桂也乃に問いかける。桂也乃は軽く首を振って、桜桃に説明する。「いつもこんなに派手なわけじゃないけど、先輩たちは結婚が決まると同時にこの学校を去っていったわ。『神嫁御渡(かみよめのおわたり)』と呼ばれる冠理女学校特有の送迎儀式なの」 花嫁修業をするために設立された華族御用達の全寮制女学校。学校を出る時は結婚する時、というのがここでは常識らしい。だが、金さえ払えばわけありの少女でもあっさり受け入れるという裏の面を考えると、すべての生徒が結婚を機に学校を辞するとは考えられない。「神嫁、なんて呼ばれるのね」 「そうよ。なんでも冠理女学校にいた生徒は北海大陸の神々に愛を賜り、良妻賢母となりて夫を支える、って評判ですもの」 桜桃はふーん、と上辺だけの返事をして考える。神々がどうのこうの、というのはたぶん商売のうえでの宣伝文句だろうが、神嫁という呼び名や仰々しい儀式など、天神の娘である桜桃からしても胡散臭さが拭いきれない。 ……じゃあ、あたしや小環みたいにわけありの生徒はどうやって学校を去るのだろう? 潜入するときのように多額の金を入れないと出してもらえなかったりするのだろうか? 桜桃の疑問に気づいたのか、桂也乃は声を落として耳元で囁く。「だけど」 その言葉のつづきをきくことは叶わなかった。 ――パァン! 刹那。 何かが破裂したような甲高い音が、桜桃の目の前で響き渡る。 蝶子の神嫁
「……びっくりした?」 「あ、うん」 「でも、いつものことだ。翌日にはまた仲良く顔を見せるから心配しなくても大丈夫」 「そうか」 同じカイムの民とはいえ部族によっては主義主張も異なるのだろう。小環はふと疑問を感じて四季に掴まれた腕をほどく。「どうした? 桂也乃たちのところに行くか?」 「いや。もうすこしはなしをききたい……北海大陸の先住民であるカイムの民のはなしや、きみのこと、それからこの地でいま、何が起きているのかを」 一気に吐き出して、小環は思わず顔を赤らめてしまう。まるで気になる女子に接近するための言い訳のような言葉だ。下手をすれば口説いていると理解されてもおかしくなかった気がする。「いいよ」 とはいえ、四季の返答は軽かった。「こっちも曖昧な説明を受けるより、本人から事情を知りたいと思ったところだからさ。皇子サマ」 あえて茶化すように、四季は小環の正体を口に乗せる。「な……」 最初からわかっていたよと嘯く四季の微笑に、思わず魅入って更に顔を赤らめる小環。そんな彼に、四季はあっさりと告げる。「『雨』でも『雪』でもないカイムの民だけど、土地にまつわる神々のことなら誰にも負けないよ。なんせうちは『天』の巫女姫さまから神職を引き継いだ『逆斎(さかさい)』だからね」 「……逆さ斎(いつき)。そうか」 桜桃の母、セツが空我樹太朗に嫁した際、巫女姫の職務は『天』の傍流にあたる一族が引き継いだという。生粋のカシケキクではないため、彼らは神の加護を放棄しその土地に仕えるためにちからを持つとされている。皇一族の人間も、彼らの仔細については知らない。天に逆らい地に従ったことを揶揄するように、逆さ斎などと呼ばれていることは知っていたが……。 ――彼らも天神の娘が持つ春を呼ぶちからを求めているのだろうか。 小環は我に却って四季を見つめる。どこか焦りを見せる小環に、四季は自分は敵ではないと穏やかに微笑する。「そ。こっちも天女に春を呼んでもらいたくて必死なのさ」 「もしや、黒多桂也